2011年8月29日月曜日

【告知】TOKYO BOOT UP! でセミナーやります☞「ソーシャルメディア時代のアーティストプロモーション実践法」

珍しく(というか初めての)告知です。
TOKYO BOOT UP!という音楽イベントでセミナーの依頼を受けました。
私が一人で喋っても仕方ないので、実践的に音楽にITを活用している20代のゲストを招いて、パネルディスカッション形式でやらせてもらうことにしました。

タイトル:「ソーシャルメディア時代のアーティストプロモーション実践法」
日時:9月16日(金)19時開演
会場:シミズクリエイティブスタジオ(高田馬場駅徒歩5分)
前売:2000円

TOKYO BOOT UP!というイベントのカラーを考慮して、インディーズのアーティストやマネージャーの役に立つことを目指します。
具体例をたくさん、とりあげつつ、全体としては、ソーシャルメディアやウエブサービス、ITの活用をする「基本姿勢」「考え方」みたいなことがわかるようにしたいと思っています。
ゲストは、3人!

自身が、ドラマーで「メリディアンローグ」というバンドのメンバーでありながら、会社を立ち上げ、フリクルというアーティストメールマガジンを出すサービスを行っている海保堅太朗君!

LyricaというJ-popの歌詞にフォーカスを当てた、iPhoneのヒットアプリの開発者、関根裕介君!

音楽とソーシャルメディアに関するブログ「a day on the planet」で示唆に富んだ提案をし続けている髙野修平君!

3人には、それぞれの活動状況を話していただきながら、音楽とソーシャルメディアの関係について、ぶっちゃけモードで、ディスカッションしたいと思っています。僕自身、なかなか無い機会なので、楽しみにしています。

トークの後には懇親会もありますので、是非、いらしてください。
定員に限りがありますので、早めにお申し込み下さい。
USTERAM放送やります。チャンネルはこちら。アーカイブもされます。
http://www.ustream.tv/channel/tokyobootup

詳細はこちらから!


9月は何故か、セミナー系が続いていて、
9月8日(木)に大阪工業大学知的財産学部で講義をやります。
9月10日(土)に日吉の慶応大学で知財マネージメント講座のゲスト講師をやります。
どこかでお会いできたら嬉しいです!

2011年8月21日日曜日

園子温監督の傑作『恋の罪』と円山町の思い出

  1980年代後半、大学には全く行かなくなっていたけど、学生証は持っていた頃、僕が最初に「事務所」として、部屋を借りたのは、渋谷の円山町だった。今でこそ、ライブハウスや映画館が建ち並んで、華やいだ場所になったけれど、その頃はまだ、ラブホテル街とその周辺という怪しいエリアだった。百軒店商店街というアーケードをくぐって、ジャズ喫茶やロック喫茶の前を通り、小径を入ったところにある、今にも壊れそうな木造のアパート、3畳ちょっとくらいのスペース。知人からのまた借りみたいな形だったけど1年半くらいで、取り壊しを理由に追い出された。

 園子音の最新作『恋の罪』1990年頃の渋谷円山町が舞台だ。実際に起きた殺人事件から触発されたオリジナルストーリー。映画で登場アパートのイメージ元は、もしかしたら僕たちが借りていたところかもしれない。追い出された後も、かなりの間、建て直しされずにいて、前を通ると無人になっていたのを覚えている。
 その頃に「立ちんぼ」と呼ばれる娼婦が、路上に並んでいたというのは、ちょっと誇張だけど、隠れて少しは居たと思うし、怪しいマンションの一室を借りた風俗営業が盛んだったのは間違いない。電話ボックスに小さなチラシがたくさん貼られていて、ラブホテルに出張させるのは盛んだったようだ。
 戦前から、娼婦街(それも公営の「赤線」では無く、「青線」街)だったらしいから、年季の入った、怪しい雰囲気を醸し出していた。今は、ほとんど無くなってしまった、ジャズ喫茶やバーがあって、高校時代からよく通っていた。そんな僕が観ても、あの頃の街の空気が見事に描かれている。

 3人の女性の生と性と死の物語、とまとめてしまうのは、あまりにも陳腐だろうか?恵まれているように見える彼女たちが、自分が手に入れられない何かを求めてもがいてる。
 水野美紀、富樫真、神楽坂恵の主演女優三人が、素晴らしい。文字通りの体当たり演技だし、女性の心の奥底が見えそうで、見えない、そんな凄みと深みがある。
 園監督は、男性目線で女を語らないようにシナリオを書いたと言っているけれど、その通りだと思った。女の怖さと強さと、言葉にできない真実がある。強烈なエロスだけれど、半端な男には勃起が躊躇われるような、大胆な女の性。

 詩人でもある園監督の台詞は、言葉の一つ一つに陰影がある。引用されている田村隆一の詩は、既知だったせいか個人的にはそんなに響かなかったけど、女性達が叫ぶ言葉は、心に刺さった。「オマエは、自分できちっと、ここまで堕ちてこい」って凄い台詞だと思わない?
 映画でしか描けない世界。そして、もしかしたら日本人にしか描けない、けれでも普遍的な、映像世界をつくりあげてくれた園子温監督に脱帽。絶賛。
 海外の映画祭でも好評だったようだし、試写会も毎回、座りきれないほどの盛況ぶりらしい。

 普段、ハリウッド映画とアニメしか観てない人には、刺激が強すぎるかもしれないけれど、観る価値がある映画です。デートで女性を誘うのは、かなりチャレンジ。大成功か失敗か、はっきり結果が出るでしょう。女性が男の品定めをするのにはいい映画かもね。もちろんR-18指定の成人映画です。1112日公開だって。

 観逃していたを反省して、今年初めに公開された同監督の前作『冷たい熱帯魚』DVDで観た。
 こちらも凄い。壮絶という意味では、こちらの方が過激。食事の前後に観たりしない方がいいし、精神的にも「持って行かれる」可能性もあるから、観るシテュエーションを考えた方がよいと思う。不快なんだけど、惹かれるという感じ。セックスと殺人シーンが続くのに、何故か詩情がある。本当に園子温監督の世界は独自だな。

 こんな監督が日本から輩出できているのは、日本文化の豊かさとして誇っていいと思う。

2011年8月19日金曜日

最近観た映画『アンダルシア』『コクリコ坂から』『GET LOUD』あと「名和晃平展」

『アンダルシア 女神の報復』
 自宅でテレビをつけっぱなしで観なくなって久しい。スポーツ中継やニュース以外は、仕事と関係のある番組以外は、ほとんど観ない。職業柄、威張れることでは無いし、忙しいというのもあるけれど。
 そんな中で、久々に録画して毎週観た連続ドラマが『外交官 黒田康作』だった。テンポのよい展開と、伏線を張り巡らせて、少しずつ謎が解けていくシナリオが面白かった。織田裕二の新境地のキャラクターもよかったし、草刈民代や近藤正臣、岩松了などの助演陣も光っていた。
 なので、続編的な位置づけの『アンダルシア』は、楽しみにして観にいった、『黒田~』の前に公開された劇場版『アマルフィ』はDVDで観て面白くなかったけれど、今度は違うだろうと。
 期待は見事に裏切られた。面白くないです。脚本がイケてない。物語の展開に驚きが無いし、気の利いた会話も無い。黒木メイサが美しい服を着るわけでも無いので「サービスカット」もない。『ツーリスト』のアンジェリーナ・ジェリーと比べるのは酷かもしれないけれど、見所が見つからない、久々に空振りの映画だった。予算も手間も掛けただろうに、どうして、こういう映画ができるのか不思議だな。

 実は、映画館でジブリ映画を観たのは、もしかしたら初めてかもしれない。宮崎駿アニメは、高校生の頃に観た『天空の城ラビュタ』や『風の国のナウシカ』から大好きだ。ブームになったからって、そっぽを向くほど、へそ曲がりではないつもりだけど「まあDVDで観ればいいかっ」って、毎回してきた気がする。そんな反省も込めて、今回は劇場に。
 宮崎吾朗監督は、宮崎駿の息子さん。偉大な父を持つジュニアが同業者になるのは、本当に大変だと思う。演者なら知名度や人気が武器にもなるけれど、作り手だとシビアに実力が問われて、誤魔化しは効かない。
 いい意味で、ジブリ的な作品になっていたし、佳作だと思う。そろそろ「宮崎駿の息子」では無く、「宮崎吾朗監督」として評価してあげたい。
(それにしても、せめて苗字だけでも換えればいいのにね?そういうことをやらない潔さも嫌いじゃ無いけど。)
 映画は、昭和30年代後半の横浜の歴史ある高校が舞台。『三丁目の夕日』の漫画&映画が典型的だけど、東京オリンピック前後の日本って、日本人にとって一つの原風景になっているんじゃないかな?厳密に言うと僕は生まれる前だけれど、子供の頃の記憶と重なる部分はある。ちょうど高度成長の後期で、社会のインフラが揃ってきて、日本人の気持ちにも余裕が出てきた頃からかもね。
 今更、薦める必要も無いほど有名な映画だけど、良いと思いました。ジブリの世界に浸ると、心洗われる気持になるね。過去作も一通り観なおそう。

 Yeah! Great! で終わらせてもいい? そんな気分。


 三世代のスーパーギタリスト。プレイだけで無く、思想性も含めて総合的な評価が高い3人。レッド・ツェッペリンを含め、50年近いキャリアのジミー・ペイジ。U2のジ・エッジ、そして、1997年にホワイト・ストライプスでデビューしたジャック・ホワイト。彼らの自分の音楽遍歴とギター観を肉声で聞くことができる。ラストシーンの3人のセッションも素晴らしい。
 音楽好きは、絶対に観るべきです。ギターマニアは、ヨダレが出るからハンカチを忘れずにね。9月9日公開。そうはいっても、万人受けの映画では無いから、公開直後に観ることをお勧めします。見逃すのは惜し過ぎる。

 そういえば、この映画は、フジロックで先行試写会をやるのを知って、観られなくて残念とツイートしたら、配給会社の方が、それを見つけて、試写会の案内を送ってくださいました。ツイッターをやってて、良かったと思った^^;
 

 映画じゃないけれど、東京都現代美術館の名和晃平展のことも。
 最近、とても注目されている現代美術家。今回の展覧会では、渋谷の西武百貨店ともコラボしていて、すごくよかった90年代の文化の香りがして、かっこよかった頃の西武みたいだった。渋谷シードホールや池袋スタジオ200というオルタナティブスペースで、毎週公演が行われていた時代。
 東京都現代美術館での展示もすごくよかった。素材を活かして、既成概念を壊し、美術というフィールドでしかできない表現をしている。新しい価値観を提示している態度は、ちょっと口幅ったいけど、自分がコンセプトを立てて新人アーティストを世に出すときのマインドと通じる気がした。村上隆さんをはじめ、現代美術家の方が、新人の音楽家よりもシビアで逞しいよね。甘やかしちゃいけないなと反省もさせられつつ、刺激と元気をもらった。

 ということで、激オススメです。828日までやってます。

2011年8月14日日曜日

文章を書くということ。〜「言葉の力」と「文章読本」〜

 猪瀬直樹著『言葉の力』(中公新書ラクレ)は、良い本だった。現役の東京都副知事が執筆活動を両立させていることが凄いと思うし、作家としての知見、能力を都政に活かしているのが素晴らしい。教育で効果を出すのには時間が掛かるものかと思ったら、フィンランドはしっかり成果出しているそうだ。東京都の改革にも期待したい。「言語技術」を高めることの重要性や、官僚に騙されない方法、古典の紹介など、幅広く「言葉の力」について書かれている名著なのでオススメ。
 猪瀬さんは、小泉内閣の道路公団改革での活躍ぶりも陰ながら応援していた。政治家としても卓越していると思う。今年の都知事選で、暴言失言が目に余る石原さんを止めて、猪瀬さん自身が出馬してくれなかったのか?それだけは不満だな。

 僕は今年の4月に初めて本を出版させてもらった。音楽プロデューサーやアーティストマネージメントという仕事は、いわば裏方で、目立つものではないと思っていたし、先輩達からもそう教わってきた。去年の1月にツイッターを始めるまで、ネット上で自分の意見を発表したことは一度も無い。ただ、今の時代は、黙っていることが、あまりに損で、やらざるを得ないと思ったんだ。

 本を書くことになったのもその延長線上にある。音楽プロデューサーって、ある意味、究極のB to Cビジネスだ。アーティストとファンを結びつける仕事。特に、新人を売り出すときは、どうやってファンをつくるかに腐心する。ユーザー動向には敏感にならざるを得ない。ソーシャルメディアの活用は、職業的な必然だった。現状を把握して、新サービスをチェックして、アイデアを考えて、とやっている内に、自分なりのソーシャルメディア観を持てるようになった。ところが、世の中の「ソーシャル本」は、マーケティング研究家とIT好きの人たちが書いているので、専門的すぎたり、偏愛していたりしているものが多い。ツールとして、その本質を理解することが必要だと思ったのが、出版の動機だ。
(ちなみに、『ソーシャルネットワーク革命がみるみるわかる本』というのは編集者がつけてくれたタイトルです。ちょっと恥ずかしいけれど、気に入っています。)

 それまで、自分が本を出すなんて、考えたこともなかった。書籍のプロデュースはしているし、アーティストプロデュースのプランの中に、書籍企画を入れることはあるけれど、自分となると話は別だし、子供の頃から国語は得意だったけど、実際に本を出すとなると、意味が違う。書き上げるまでは必死で、入稿してから不安になった。文章ってどうやって書けばいいんだろう?
 読者の方にはごめんなさい。順序が逆になるけど、文章を書くと言うことについて考えるようになった。以来、「文章論」を、片っ端から読んでいる。

 まず、野口悠紀夫著『「超」文章法』(中公新書)を読み直した。
 野口さんの本は、ほとんど読んでいる。経済学者らしい合理性が肌に合う。『「超」整理法』には感銘を受けて、ずっと「超整理手帳」を使っていた。一昨年に、グーグルカレンダー&iPadに換えるまで10年以上、使っていた気がする。『「超」文章法』も、論理的に整理されていて、頭がすっきりした。ともかく分かりやすい文章。「名文」は簡単に書けないし、そもそもの定義も難しいけれど、「わかりやすい文」は誰でも到達できるという考え方にも共感。
 全体を俯瞰して、前提を確認して、目的を明確にし、戦略と戦術をブレイクダウンするという構成は、野口氏の得意とするところだ。索引や参考図書も充実していて素晴らしい。強く薦められていた『理科系の作文技術』(中公新書)を読んでみた。
 とても参考になった。木下是夫さんの科学者らしい文章構造の分析。誤解、誤読がされづらい文を書くというのは、とても大切なことだ。

 併せて、文学者の文章本も読み始めた。そこで思うのは、小説家が文章論を書くのは、自分を語ることなんだなと。井上ひさしの『自家製・文章読本』(新潮文庫)、彼の戯曲を読むような洒脱さと、難解さがある。川端康成の『新文章読本』(新潮文庫)は、ノーベル文学賞受賞作家の文壇における立場が窺わうことができた。


 最も感動したのは、谷崎潤一郎の『文章読本』(中公文庫)だ。まず、その文体が美しい。書いてある内容以前に、文章そのものが綺麗なことに魅せられるってあるんだね。美声のボーカリストは、何国語の歌詞でも感動させられるように、谷崎の文体そのものが素敵だった。書いてある内容そのものは、論理的に矛盾があって、「名選手、必ずしも名コーチならず」という気もするけれど、美しい打撃ホームを見せるのが、一番の指導法なのかもしれない。
 スティーブンキングの『小説作法』(アーティストハウス)も良かった。自分の半生と文章論が、溶けあった内容。小説を読んだことは無かったけれど、作品にも人物に興味を湧いた。
 結局、僕がわかったのは、作家が文章について書くと、自己を語ることになるのだということ、そして文章力は、結局はコミュニケーション能力なんだということ。人に伝えるために、身を粉にするのだなと。

 音楽プロデュースも、コミュニケーション能力が問われる仕事だ。時には、自説に固執するアーティストを論理で説得しなければいけないし、スタッフの気持を鼓舞する必要もある。メディアの人たちをその気にさせることも大事。扱っているものが音楽という目に見えないものだけに、楽しそうに思ってもらわないといけない。それらは口頭で行う。べらべら喋るってこと。
だからだと思うけれど、何かについて書こうと思うと、そのイメージは話し言葉だった。口で話すときは、抑揚や音量や仕草の比重も大きい。大きな声で楽しそうに、キーワードを何度も繰り返すみたいなことが、論理よりも重要だったりする。文章を書くときはそうはいかない。飛躍した形容は混乱を呼びかねないし、文同士のつながりも大事だ。ボキャブラリーもあまり陳腐だと、下品な文になる。書き言葉には話し言葉とは違うスキルが必要だと当たり前のことを確認している。

 その意味でも、ツイッターは面白い。リアルタイムメディアというように、ストック(蓄積)ではなく、フロー(流れていくこと)を前提にしているし、反射神経で対応するのは話し言葉的なコミュニケーションだ。ただ140文字以内で簡潔に伝えるのは意外に国語力がいることも感じている。オープンで誰がみるかわからないから、誰が見ても良いという気遣いも必要だ。

 「言葉の力」は人間力の基礎スキル。ソーシャルメディアの発達で、人間力と国語力が重要になっている気がする。デジタルが進んでアナログ的なスキルが求められるのは面白いよね?
 
 そんな事を思いながら、ブログを書いたり、読書したりしています。新しい書籍の企画もいくつか検討中。もちろん、音楽プロデュースもやっている。文章は左脳で、イメージは右脳を使うらしいから、そういう意味では、脳みそはバランスよく活用できているのかもしれない。

 ソーシャル時代に対応して、自分の読書記録は公開しているので、興味のある方はご覧になってください。意見交換などできたら嬉しいです。

2011年8月12日金曜日

フジテレビ「韓流偏向」問題の整理 ~テレビ局と東電の共通点〜

思ったより大きな騒動になっている、フジテレビ「韓流偏向放送」に対する抗議の問題。インターネットでは、野次馬もたくさんいて、いわゆる「祭り」という状態なのかもしれないけれど、あまりにも無茶苦茶な意見を散見したので、整理したいと思う。

 俳優の高岡蒼甫さんが、ツイッターでフジテレビが韓流ドラマばかり放送していることを批判したことがきっかけで、反フジテレビの声がネット上で巻き起こった。

●フジテレビが韓国に肩入れしているというのは「トンデモ」な妄想
 
 フジテレビが局として、韓国に肩入れしていると言うのは、「トンデモ」本のような妄想だ。日韓戦を韓日戦と言ったとか、どうでもいい話にしか僕には聞こえない。フジテレビの経営陣から、「キムチ鍋の人気を煽れ」と、製作現場に指示が出ていると本気で思っている人が居るとしたら、その方が信じられない。UFOは地球にきていて、異星人が、既にたくさん住んでいるというレベルの妄想。
 東海テレビの番組で、岩手県農家を侮辱したテロップが流れたのは、酷いことだと思うけれど、あくまで単純ミスだし(そんな品性の低いディレクターがつくっている番組は下劣だという判断はしても良いと思うけど)系列局というだけで、フジテレビ批判に結びつけるのも、坊主が憎くけりゃ袈裟まで~的で、強引だ。フジテレビでは放送されていない番組だし、基本的に関係ない。

●問題は視聴率至上主義の経営方針

 今回の騒動で確認しなければならないと思うのは、テレビ局の構造的な状況だと思う。高い視聴率を取ることに偏った体質が長く続いて、テレビ局の編成方針と、視聴者のマインドとがずれているのだと思う。
 言うまでも無いけれど、テレビ局の主な収入源であるCM収入は、企業広告費でまかなわれている。番組をまるごと提供するような形もあるけれど、スポットと言われるTVCMが大きい。このスポットの価格が、局の平均視聴率で決まるので、どの時間帯も視聴率の数字を落としたくない。
 おそらく平日の午後帯に視聴率をとるのが難しくなってきていて、熱い固定ファンの居る韓流ドラマで、下支えをしたいのでは無いか?DVDの権利の一部を持ったりとかしているかもしれないけれど、TV局にとっては、放送外収入よりも視聴率の方がずっと優先順位が高い。

 近年の番組作りは、この視聴率を取ることを最優先に行われている。出演者の発言をテロップにしたり、CMの直前に煽って、CM明けに同じところから放送するなど、チャンネルを変えられて、一瞬でも視聴率が下がることを避けるために編み出された手法だ。番組が面白いかどうかとか、視聴者が興味を持っているかどうかとは関係が無い。(むしろ、真剣に観ている人は不快に思うよね?)そもそも視聴率は、番組に関する指標の一つに過ぎなかったはずだ。
 しかも、データとしては不完全だ。以前、視聴率の機械をとりつけている家に不正を働きかけたテレビプロデューサーの事件があったけれど、デジタル技術が発達した時代に、テレビ受信機単位でサンプルデータを集めているのは、信じがたい。他にいくらでも方法はあるはずだ。こんな誤差がある方法で、番組の終了や継続が決まっているのは、滑稽ですらある。日本人は、できた仕組みを洗練して高めていくのは得意だから、大手広告代理店にも局にもスポンサー企業にも都合が良くて、止められないのだろうけれど、一番大切な視聴者の意向が反映された数字で無くなってしまったことを見落としている。

●地上波テレビ局は許認可で守られた絶大な権力という意味で電力会社と似ている

 TVについて考えるときに忘れてならないのは、テレビ局は、政府の許認可で守られているということだ。当たり前と思ってしまっているけれど、どんなにお金があっても、地上波のテレビ局をつくることはできない。以前、ホリエモンやソフトバンクの孫さんが買おうとしてもできなかった。
 競争から守られている以上、公共的である義務が生じる。経営に関する情報がガラス張りで公開されるべきだし、番組編成方針も明確であるべきだ。代理店が企業からCMを出させるのに都合が良いから、高い視聴率だけを目指して番組の制作や編成をするのは、そもそも間違っている。
 ところが、東電の役員達がそうであったように、TV局の経営陣も自分たちがパブリックな仕事をしているという意識は薄いようだ。特権的な立場を獲得したサラリーマンのメンタリティなのかもしれない。テレビ草創期とは明らかに変わっている。
 以前「発掘!あるある大事典」という関西テレビの番組が、ヤラセ事件を起こして打ち切りになったけれど、根はもっと深くて、番組の影響力を利用した犯罪的な行為が日常的に行われたというのは業界では有名な噂だ。何故、全く報道されず、検察も動かなかったのか理由は知らないけれど。

●番組タイアップ楽曲の権利を押さえるテレビ局

 音楽業界との関わりで言えば、テレビ番組のタイアップになった楽曲の著作権の権利(代表出版)を、必ず放送局の子会社が得るという業界慣習がある。独占禁止法の教科書に出てきてもいいような「特権的地位の濫用」に当たると思うけれど、僕らもタイアップは取りたいから、やむを得ず「献上」している。数年前に、総務省が問題視したことがあって、その際に、僕も総務省に呼ばれて話をしたけれど、放送局側の説明が、支離滅裂でびっくりした。業界慣習に乗っかっただけで、何の理論武装もできてなかったんだな。
 フジパシフィック音楽出版や日音などは、素晴らしいアーティストを産み出すのに、TV局の力と関係なく、大きな功績がある出版社だし、素敵な音楽人も多い。お世話になった方もいらっしゃるし、放送局系出版社の存在を否定するんじゃ無いけれど、自社の番組に関連する曲の権利を「自動的に持っていく」のは、社会的なルールとして間違っていると今でも思う。「李下に冠を正さず」という考え方で言えば、その放送局の番組のタイアップ曲は、「系列の音楽出版社は権利を持てない」という逆の慣習にするべきではないだろうか?

●日本の番組は韓国のテレビ局では放送できない。

 いずれにしても、テレビ局は、(近年薄れてきているとはいえ)巨大な影響力を持ち、国の許認可権で守られているのだから、「視聴率がとれる」以外の、明確で、納得度の高い編成方針を持つべきだ。
 そういう意味で、高岡発言や、ネットユーザーのフジテレビパッシングには、一定の正しさがある。「いくらなんでも酷すぎない?」というメッセージとも言える。
 韓国は国を挙げて、戦略を持って文化輸出を仕掛けている。一方、韓国内では日本語コンテンツの放映には法的な制約がいまだにあるという不均衡がある。韓国政府への働きかけはもちろん、日本政府の仕事で、テレビ局の範疇では無い。ただ、韓流の好き嫌いは別にして、こんな状態で、韓流ドラマを過剰に放送する事に対して、公共性や日本の国益に反しているという意見はあって当然だと思う。これを機会にフジテレビが考え直してくれると良いと思う。
 花王の不買運動は、もちろんやり過ぎだと思うけれど、協賛企業にまで「攻撃範囲」を広げるのは、戦術としては正しい。テレビ局(と代理店)の弱点を突いているから。
 
●高岡さんは自分の職業を見つめ直して欲しい。

 ちなみに、高岡さんの言動を僕は支持できない。彼が真面目に考えているのは伝わっているけれど、言葉や行動があまりにも稚拙だ。そして、個人的には、プロの俳優であることの自覚が薄いこと、事務所を辞めたら俳優できない旨の発言を、残念に感じた。俳優は誰にでもできる仕事じゃないし、才能があるんだから、もっと大事にして欲しい。それに、俳優だから影響力があるという自覚も持つべきだね。
 ただ、幼稚な人の率直な発言だけに、人の心には刺さったのかもしれない。僕はあまりテレビは観ないし、特に平日の午後はノーチェックだったので知らなかったけど、韓流ドラマだらけの編成方針に辟易している人が多かったから広まっただろう。
 ちょっと逆説的だけれど、今回の事で怒った人たちは、まだテレビに対する愛情が残っている人たちだとも思う。
 こういう人たちが残っているうちに、テレビ局が意識を変えることに期待したい。
そうなると、このおバカな「祭り」も意味があったことになるよね。


●テレビ局も「送発電の分離」が必要


 フジテレビは、深夜放送を若手ディレクターに開放して、ヒット番組をたくさんつくった歴史がある。僕自身も元々は、テレビっ子世代だし、古い話になるけど、個人的には「カルトQ」が好きだった。


 日本のテレビ局には、ノウハウの蓄積があり、コンテンツの企画制作に高い能力がある。最近当たった日本映画に、テレビ局が座組の中心になっている事が多いのは偶然じゃ無い。新しい才能を取り込んだり、多様な出演者をバランスよくまとめたり、テレビ局を中心としたコンテンツ制作力は、群を抜くところだ。
 残念なのは、「電波塔を維持すること(=既存のビジネススキームを守ること)」が「視聴者にとって面白い番組をつくる」事よりも優位になってしまっていることだ。
 電力会社が、送電システムを仕切っているから、発電が画一化してしまったのと相似形に見える。
 前述の番組タイアップ曲の著作権の話のように、許認可で電波を持っているところが、その力をコンテンツ製作に及ぼす時には、デリケートな仕組みが必要だ。テレビ局は、高い制作能力を殺さないためにも、制作と放送は分離すべきだと思う。
 海外から注目されている日本のドラマやバラエティが、輸出ビジネスとして成功しないのも、日本で視聴率をとることしかプロデューサーが考えられないからだ。インターネットも含めた様々なメディアで、多様なコンテンツを流通させるようになれば、収益機会も広がるし、番組も豊かになる筈だ。
 日本のコンテンツの活性化のためにも、テレビ局の「制作放送分離」を強く望みたい。

2011年8月4日木曜日

極私的タイ論。タイ好きは、ダメンズ好きと似てる? 〜「ハングオーバー2」を観て、バンコクについて書きたくなった。〜

「ハングオーバー2」を観た。独身最後の夜に男友達が集まって馬鹿騒ぎをするのだが、
記憶が無いくらいハメを外して、事件を起こしてしまうというコメディ。好きな映画だ。
前回は、ラスベガスが舞台だったけれど、今回は花嫁がタイ人と言うことでバンコク。
映画自体は、前作以上のハチャメチャで面白かったけれど、そこで描かれているバンコクが矮小化されていて、映画は面白かったんだけど、大好きな街だけに、ちょっと悲しかった。リアリティを求める映画では無いけれど、そんな偏見で捉えるなよって思ってたら、タイについて書きたくなった。

「ハングオーバー2」で出てくるタイは、ごみごみした町並みと、オカマのショーがフューチャーされて、少し前のプロトタイプの東南アジアの都市という感じ。
(後半の重要なシーンででてくるビルの屋上の絶景レストランは、有名な「シロッコ」だと思う。)

僕は、オーディションで選んだ16歳のタイ人女子高生を日本でシンガーとしてデビューさせたという珍しい経験を持っている。(その過程は誠ブログに書いたので、こちらをご覧ください。)
CDリリースやフェスティバルへの出演等、音楽活動をしただけでなく、タイのアーティストとも交流したし、タイのレコード会社や制作会社と直接、契約をして、様々な形で関わった。

その体験を踏まえて、僕なりのタイ観がある。バンコクは、サブカルチャー、都市文化という意味では、今、世界一刺激的なんじゃないかな?
音楽も、バンド系、クラブミュージックなど、幅広く、良い意味で無節操。不良欧米人も多いし、宗教的な禁忌も無い。ゲイが一番のびのびしている街かもしれない。

そもそも、日本人にとって、タイは親しみやすい国だと思う。よく言われていることだけど、
1)西欧の植民地になったことがなく
2)仏教国で
3)王様がいる
というのが、アジアでは、日本とタイだけの共通点だ。
「微笑みの国」と言われるくらい、優しい国民性だし、日本人には付き合いやすいと思う。
ちなみに、今、世界で一番たくさん日本人がいるのは、バンコクだそうだ。数年前にニューヨークを抜いたと聞いた。
大使館が把握している「公式の」滞在者だけの数なので、実際はもっと多いかもしれない。食事も、すごく美味しい。辛いのが苦手な人は、ちょっとつらいかもしれないけど、
タイ料理だけでなく、イタリアンなども安くて、美味しいお店がたくさんある。

 そんなタイに、去年はテロがあった。テロと言っても、イスラム圏の無差別とは違って、当初は牧歌的だった。占拠されているデパート前を歩いたけど、屋台まで出ていてお祭りみたいな雰囲気。後に、お互い引っ込みがつかなくなって、先鋭化していったね。日本の反安保の学生運動とかこんな感じだったのかなと思った。
死者が出たのは、国際的にもイメージダウンだった。空港を占拠したのも驚いた。観光が大きな収入源のはずなのに、国内の政治闘争で大きな損失をつくった。
 自分の仕事にも悪影響があったので、詳しく知りたくなって、タイの政治状況について、タイの友人達にいろいろ取材してみた。

話題の中心である元首相のタクシンは、本当に賛否両論、毀誉褒貶がすごい。話を聞いていて、日本で言えば、田中角栄とホリエモンを合わせたような感じかなと思った。
タイの農村を「改造論」を掲げて、お金をばらまいて、地方の農民から強い支持がある。同時に、旧い経済の仕組みを改革して、経済を活性化させたけれど、その事で旧体制から反発を受けた。王様に対する敬意が足らなかったことも嫌われている理由。価値観のパラダイムシフトをやろうとして、中途で国から追い出された。私欲も強くて、国も豊かにしたけど、私腹も肥やしたらしい。田中角栄+竹中平蔵+ホリエモンという感じかしら?そのくらいの影響力があったと思う。

いろんな話を聞いていて感じたのは、社会としてダメなところも、日本とタイは似ているなということ。既得権益の仕組みを壊せずにいる様子、変な壊し方で不都合がでてる状況が日本をもう少し悪くしたような印象をもった。

長くタイで仕事をしている多くの日本人が、タイ人には「木を見て森を見ない」という特質があると言う。目先の感情論や面子みたいなものに引っ張られて、本質を見失ってしまうことが多いらしい。実際、デモの先鋭化もそういう印象がある。
僕自身、タイの会社とビジネスをしていても、視野が狭くて、半端な感情論から抜けられず結果、その本人も損しているのに気づかないというケースを何度か見た。ずるく立ち回るうとしているなら予測も交渉も可能だけれど、論理を理解せずに、目先の気分で突っ走られると、対処が難しくて困ってしまう。環境をきちんと認識せずに、損な選択をかたくなに選ばれると打つ手が無い。深い嘆息とともに諦める。そんな経験を何度かしている。

正直、ここには書けないようなことも含めて、タイ人やタイの会社からは、理不尽な迷惑を受けたことがあるのだけれど、それでも何故か、タイとタイ人を好きでいる自分がいる。
以前「ダメンズ」と言う、甲斐性の無い男ばかりを好きになる女性のコミックが話題になっていたけれど、そんな気分もあるのかもしれない。暑いところで、辛くて美味しいもの食べていると、「マイペンライ(まあいっか)」と思いがちだよね。シンハービールも旨いしね。

まったく個人的でとりとめの無くなってしまったけれど、タイのことは、今後も時々書こうと思います。違うと思ったら遠慮無く指摘してください。嗚呼、トンローの屋台のバーミーが食べたい!