2011年7月25日月曜日

気がつけばコンテンツと呼ばれて。~デジタル化&ソーシャル化で変わること、変わらないこと

 友人のツイートをきっかけに、心ならずも、読まずに批判してしまったので、これからスマートフォンが起こすこと。』本田雅一著(東洋経済新報社)を購入して読んだ。
全体の大意は賛成。デジタル化と常時ネット接続状態(≒ソーシャル化)の象徴を、スマートフォン(とタブレット)に見立てて、社会と人の生活への変化をまとめている。ポイントの整理の仕方も上手だし、勉強になる本だと思います。タイトルに引っ張られたのか、わかりやすくするためか、これから起こることの結果を「なんでもかんでもスマフォ」に落とし込み過ぎな印象はあるけれど、読む価値は十分あるでしょう。

ただ、この種の本にありがちなことで、音楽配信に関する記述は間違っている。「~あれほど導入時に抵抗の強かったiチューンズミュージックストアが、日本の音楽デジタル配信の中で圧倒的な存在感になっていることも踏まえ~」との記述。「圧倒的な存在感」という表現は抽象的だけれど、米国では過半になっている売上比率が日本では数パーセントに留まっているという事実を筆者は知っているのかしら?アップル社の企業としての存在感は、日本でもとても大きいと思うけれど、それが「音楽配信のシェアに反映されていない」ことが、認識すべきポイント。このことは、繰り返しになるので、興味のある方はこちらをご覧ください。日本の音楽配信事情2011 〜ジャーナリストや評論家に音楽ビジネスの間違った認識が多すぎる!〜

改めて思ったのは、客観的に見ると「俺たちはコンテンツをつくっているのだなぁ」ということ。当たり前だけど、この本の筆者も音楽は、one of themでとらえている。
最初に「コンテンツ」という言葉を聞いた時は、とても抵抗感と違和感があった。アーティストとスタッフが、精魂込めてつくっていうのは「作品」だから。そんな言い方で、軽々しく扱ったり、語ったりするなよ!っていう気分。正直それは、今でもある。
でも、僕はスタンスを変えることにした。アーティストは「作品」を作り続けて欲しいし、その環境を提供したいと思うけれど、アーティストとユーザーをつなぐ仕事をしている僕たちは、「コンテンツ」を流通させて、お金に換えなければいけない。大切なのは、アーティスト(作品)とユーザーで、それ以外は、何でもいいんだ。

以前から僕が音楽業界外の人に説明するときに、よく使う比喩がある。レコード業界を石炭産業に喩えて「奴らは、いまだに石炭を掘りたいって言うんですよ。僕もいわば"炭鉱育ち"だから、カンテラの種類と当て方の角度の話を、夜明けまで熱く語るのは好きですよ。でも、僕は自分をエネルギー産業と定義付けているので、アーティストとユーザーが結びつけるのが大事で、太陽光でも水力でも風力でも何でもいいと思っているんです。」こう言うと、結構、伝わる。
(原発事故の今は、ちょっと不適切な表現かもしれない。気に障った方がいたらごめんなさい。)


 尊敬する田坂広志さん(最近、菅首相の内閣参与になってしまって心配だけど)が著書で、「ミドルマン」という言葉を提示されていて、心に刺さった。生産者と消費者をつなぐ「ミドルマン」は、従来型とは機能を変えつつ、重要度はむしろ増すという主旨だ。俺もミドルマンになろう、というか、俺ってミドルマンだったんだなって。

音楽も映像も小説も、場合によってはプロ野球チームまでも、インターネット上では、すべて「コンテンツ」、デジタルファイルとして、流通していく。商品自体がデジタル化できない場合も、商品に関する情報はネットのクチコミで広がるし、ユーザが購入の意思決定をするのは、モニター画面になる。最近、博報堂の調査で「またがり消費」っていう言葉が使われていたけれど、DVDを買うか、電子書籍を買うか、楽曲を買うか、ライブチケットを買うか、Tシャツ買うかが、同じ画面で比較して、選ばれるようになっていくのだろう。

そんな時代に、音楽プロデューサーって名乗るとしたら、「コンテンツ」に関する事象に詳しくないと駄目だよね?アーティストの役に立つこともできない。今年の春に、ダイヤモンド社から、初めての本を刊行させてもらえることになって、自分の肩書き「音楽プロデューサー」に「コンテンツオーガナイザー」を加えたのは、そんな気持ちからだ。

 技術の発展は、流通や宣伝方法を変えていくし、時には表現そのものにも影響を与える。日本では、「元気ロケッツ」が、先駆的なことをかっこよくやっているけど、あのプロジェクトは、僕の知っている言葉で言えば、バンドよりは、メディアアートに近い。作品自体が、「音楽」という枠をはみ出していく例は、これから増えていくだろう。

一方で、デジタル化やソーシャル化で、音楽そのもの価値が変わるかというと、全然、そうじゃないことが自信を与えてくれる。道具が変わっても、人の心が変わるわけじゃ無い。感情に訴える音楽の価値は、社会的にむしろ、より重要になる気がする。

アーティストと企業のコラボレーションについても、積極的にやっていくべきだ。ソーシャルメディアが消費者とのコミュニケーションの中心になっていく数年後には、アーティストやエンターテインメントコンテンツは、企業にとっても有益なはずだ。これまでの、マスメディアでの大量露出とは違う形で、有機的な関係をつくっていけると思っているし、そういう企てに関わっていきたいと思っている。

 時代の変化は、しんどいことや、寂しいこともあるけれど、ワクワクするこもたくさんある。ポジティブに受け止めて、新しいことに挑戦していきいたいです!
 僕が役に立てそうなことがあったら、お気軽に声をかけてください!

2011年7月23日土曜日

「同人音楽」は「Do it yourself」なのか? 〜私論の試論ですが、、、

 『HOMEMADE MUSIC』という本をブルースインターアクションズさんから献本していただいた。素晴らしい本だった。よい書籍をつくるのに、編集者の役割が重要なのは、知ってるつもりだけれど、こんなに編集者の思い入れがストレートに感じられるのは珍しい。江森丈晃さんという方の精魂込めた感じが伝わってきた。

サブタイトルに「宅録~D.I.Y.ミュージック・ディスク・ガイド」とあるように、宅録(=自宅録音)というテーマでまとめられた本だ。山本精一や曽我部恵一という企画にぴったりのアーティストのインタビューも非常に興味深い。彼らの生き方が産み出す音楽と同じくらい魅力がある。そして、たくさんのディスクレビューが、宅録というテーマでまとめられている。改めて「俺の知らないアルバムってたくさんあるんだなぁ」と不勉強を反省したし、同時に嬉しくもなった。まだまだ聴く音楽がたくさんあるんだね、当たり前だけど。

僕自身の宅録初経験は、中学生の頃に友達が持っていたカセットMTRだったと思う。高校時代にバンドやってた頃、先輩が買ったTEACの4チャンネル・オープンリールレコーダーを見て、興奮したのを覚えている。その頃は、まだ「宅録」とは、言わなかったような気がするけれど、録音をするという行為の高揚と緊張は、他では味わえないものだった。親と交渉してリビングに機材を広げ、近所に気をつけながらの、特別な行為だった。この本を読みながら、あの頃の興奮の記憶が蘇ってきた。

実は、この本をいただいたのは、フェイスブックがきっかけだった。経産省の「デジタルコンテンツ白書2011」の音楽部分を書かせていただくことになり、今の日本の音楽事情を語るなら「同人音楽の隆盛」は、外せないと思って、資料を探したのだが、データが無い。数値を載せるのはあきらめて、定性的な情報を中心にまとめることにした。そんなことをつぶやいていたら、参考にと送っていただけたのだ。P-VINは、大好きなレーベルで、他では出さないような本やCDがたくさんあり、若い頃から勉強させてもらっていた会社だったから、すごく嬉しかった。
そして、逆説ではなく、ポジティブな意味で「同人音楽」現象と「宅録〜D.I.Y.」の違いについて考える機会になった。

D.I.Y.(=Do it yourself)という言葉が、広まったのはいつ頃からか、覚えてないが、アメリカ西海岸発だったようなイメージがある(詳しい方がいたら教えてください!)。大量生産の工業製品的な音楽に対するアンチテーゼが、そこには含まれている。
宅録という言葉には、秘められた行為というニュアンスがある。孤独と向き合うことともセットだ。
いずれにしても「わざわざ自覚的に選んで行う」のが、宅録〜D.I.Y.なのだ。社会に対する一定の距離感、自己責任、みたいなことはセットになっている。

 一方、同人音楽に、そういう緊張感は無い。ほとんどは、パソコンで完結するDTM(デスクトップミュージック)として作られる。「ニコニコ動画」という共通のコミュニケーションプラットフォームがあり、リアクションをもらうことができる。バンドを組むのは人間関係が面倒だけど、パソコンで初音ミクを使えば、楽だ。同じ一人での作業でも、その気分は、「宅録」とは、ずいぶん違う気がする。その代わりに、ユーザーと同じ目線を持っているのが彼らの強みだ。時代環境と言ってしまえば、それまでだけれど、様々な意味で僕にとって示唆的だ。

 オタクキングこと岡田斗司夫さんの著作に『オタクはすでに死んでいる』(新潮新書)がある。オタクの元祖ともいえる岡田さんが、若い世代を見て「オタクの矜持が崩壊した」との主旨を書かれていたけれど、似た構図を感じる。以前は、オタクであることはプライドだったし、同時に社会的に迫害されるような、白い目で見られる存在だった。だから、アニメのコレクションをしているオタクも鉄道のこともある程度知っていた。「オタクの一般教養」みたいなものがあったというのだ。
昔の「オタク」はもう死んでしまい、一般化して薄まったオタク的な人たちがたくさんいる現状を、良い悪いではなく、岡田さんは静かに受け止めているようだ。
(自分に刺さった部分を古い記憶で書いているので、書籍の主旨とずれていたらごめんなさい。とても勉強になった本でした。今、本棚で見つからないので近いうちに、読み直しておきます。)

特別な人間(と自分で勝手に思っているだけかもだけれど)の秘められた楽しみであった宅録は、デジタル化で手軽に安価になったことで、たくさんの人に広がった。「同人音楽」として、独自の文化圏をつくりだし、新たな経済圏もつくり始めている。この先はどうなっていくのだろう?

D.I.Y.を標榜する思想性も、宅録好きの暗さも、オタクの矜持も無い「同人音楽」の担い手であるクリエイター達に、注目していきたいし、音楽プロデューサーとして彼らと、しっかり関わっていきたいと思っている。多少の違和感は抱えたままだけれど、それが、僕が「時代と付き合う」ということだ。そんな気がしている。

2011年7月21日木曜日

松井秀喜の通算500号を祝いつつ、思うこと。


野球選手で誰のファンかと考えると、個人的に好きという意味で野茂英雄と落合博満がいるんだけれど、思い入れを持って、見続けているという意味だと、松井秀喜が一番かもしれない。星稜高校時代には、甲子園で五打席連続敬遠されたように、高校生の中に大人が交じっているような強い「違和感」を放っていた。PL時代の清原選手も横浜の松坂投手もスゴかったけど、一見して体つきが違う「特別な存在」という意味では、松井が図抜けていたと思う。

巨人に入団してからも、特別な存在感は変わらなかった。当時の長嶋監督の熱い指導もあって、四番打者としての英才教育がされていたけど、プロ野球の世界でも、遠くからでも一見してわかる存在だった。4年目に38本のホームランを打って以降、名実共に大打者になっていった。
2003年に大リーグに行ったのは大事件だった。野茂~イチローという先駆者はいたけれど、何と言っても、松井は巨人の大看板。保守的で高圧的で、掟破りも厭わない読売巨人軍の四番打者が大リーグに行ったことの意味は大きかった。もう誰が大リーグに行っても不思議は無いことになった。そして、入団先は大リーグでも最老舗のニューヨークヤンキース。
松井の出場試合は、NHKBSで毎回の様に放送してくれたから、深夜や早朝に観ていた。松井の活躍はとても嬉しかったけど、僕の記憶に残ったのは、当時のトーレ監督に支持された勝負強いバッティングよりも、堅実な守備や懸命な走塁だった。高校時代から「特別な存在感」だった松井が、普通に「かっこいいアスリート、素晴らしい野球選手」として、そこに居た。ファンの勝手な思い入れかもしれないけど、松井が、やっと心から野球を楽しめる場が見つけたんだなと思った。

巨人の試合をテレビで観ていた時に、松井の走塁シーンなんて全然記憶にない。ホームランやタイムリーヒットを打った姿、ストライクを投げてもらえずに四球を選ぶシーンが印象に残っている。でも、大リーグでは、犠牲フライになりそうなレフトフライをホームに投げるシーンや(松井は肩も良い)、一塁ベースからライト前ヒットで三塁に走るシーン(松井は足も遅くない)を、美しく感じた。そして、松井がもっと好きになった。実際、選手からも監督からも、野球に取り組む姿勢も含めて、トータルな野球選手として愛され、尊敬されているという話を聞く。

もしかしたら、日本のプロ野球とアメリカ大リーグの違いを、一番体現してくれたのは松井秀喜なんじゃないだろうか?日本でが規格外の存在が、大リーグでは(ふつうに)すごく良い選手。集まる選手の裾野の違いが、リーグのレベルを決めるのは当然だ。同時に、日本の一流選手は、大リーグでも通用することもわかった。向き不向きのタイプはあるにせよ。
松井は、大リーグで一流選手としての実績を残し始めたときに、ファインプレーと紙一重のプレーで左手首を怪我、その後も度重なる膝の故障で、ここ数年はベストの体調で試合に臨めていない気がして、残念だし、心配だ。

ファンの期待から言うと少し遅すぎた、通算500号のホームランを、心から祝うとともに、怪我からの回復が難しいなら、日本球界への復帰も考えてほしいと思う。パリーグで、指名打者を中心にした出場にすれば、まだホームラン王を取れる可能性はあるでしょう?幸い、ライオンズのおかわり君こと中村剛也、オリックスのT-岡田、ファイターズの中田翔と、若い好敵手も居る。

数字ばかりにこだわるのは、スポーツファンとして邪道だとも自戒しつつも、やはり松井秀喜には、才能と存在感に似合った生涯記録を残してほしい。王さんの868本は難しいだろうけど、野村克也の657本超えを目指して、少なくとも門田博光の567本を抜いて歴代三位の成績は残して欲しいなぁ。

2011年7月13日水曜日

最近観た映画。名作揃い。〜『八日目の蝉』『奇跡』『ブラックスワン』『ゲンズブールと女たち』

 たまってしまっていた最近観た映画。今回は名作揃いでお薦め感が満載なり。


 『八日目の蝉』
 とても評判が良くて、興行的にも成功しているみたいだけど、確かによくできた映画だ。井上真央(が主役って観終わるまで気づかなかった)スゴいね。永作博美も超熱演。演技力に圧倒される。

 物語が、女のたくましさと情の深さが主題になっていて、男性は影が薄い。女性の女性による女性のための映画って感じ。男って、いい加減で、情けない存在だなって、突きつけられる。「すみません、、。m(_ _ )m」って気持ちにさせられた。
 中絶させられた愛人が、妻が産んだ赤ん坊を誘拐して、逃亡しながら、愛情豊かに育てるが、4年後に捕まる。その娘が大学生になって、、という設定なのだけれど、特異な状況と思わせない迫真性がある。
 残念だったのは、ラストシーン。エンディングで主題歌「Dear」(中島美嘉)が流れるのだけれど、感動が台無し。こみ上げてきた涙が引いてしまった。歌詞がある事で、イマジネーションを狭める事ってあるなと、音楽プロデューサーとして身につまされた。曲自体はJポップとして、とてもよくできている作品なだけに、よけいに残念。ギョーカイ人としては、もしかして何かご事情がおありかもとご推察申し上げるけれど、作品の傷になるのは、やっぱり駄目だよね。イメージソングとしては素晴らしいのだし、TVスポットCMで散々、聞かせてあるんだから、ラストはオーケストラバージョンで始めれば良かったのに。インストルメンタルでドラマと少し馴染ませてから、歌が入ってくれば、随分印象が違ったと思う。


 『奇跡』

 これも友人たちから評判が高かったのだけれど、スゴく良かった。僕は、子供と年寄りが主役の映画は、敬遠しがち。そもそもの設定が「反則」という気がするし、お涙ちょうだいにしようとしている?って感じ。もう一つ告白すると、是枝監督の世界も、あまり好みじゃない。小説家の文体のようなものが、映画監督にもあると思うんだけれど、その「文体」が、肌に合わないんだと思う。そんな僕が、すごく良いというのだから、名作だよ。
 上演時間が127分でちょっと長い。人間関係やタイトルの「奇跡」何を指すのかがわかるまで、最初の30分間は半分位に編集すれば良いのにと思うのだけれど、説明を省いて、淡々と描くのが是枝流なんだろうね。認めざるを得ない。
 子役達の演技が不自然さが無く、抜群。周辺の大人の俳優陣も好演。オダギリジョーと大塚寧々もよかったけど、鹿児島の実家の祖父母が、橋爪功と樹木希林というのが、贅沢だ。
 淡々として、特に事件の無い映画が、興行的にも成果を収めるのは良いことだと思う。九州新幹線の開通の話なので、JRとはタイアップしているみたいだけど(裏事情は何も知りません)全然、嫌みじゃなく良い形だと思う。クライマックスのトンネルとか実在するのだろうから、観光名所になるよね。地方振興に映画が貢献する例が増えるのは嬉しい。


 くるりの音楽も素晴らしい。前述の『八日目の蝉』と違って、エンディングで曲が掛かると、ぐっとくるのは、音楽家と監督の距離が近くて、必然性が濃いからだろう。本編の中でも、モチーフが使われているしね。
 ということでオススメです。


 『ブラックスワン』

 大名作!アカデミー賞作品賞は、何故、これじゃなかったの?と思った。鬼気迫るナタリー•ポートマンの演技は歴史に残るレベルだから、主演女優賞は当然として、作品としても、『英国王のスピーチ』より、断然こちらを推したい。って、もう遅いけど^^;
 ニューヨークのバレエ団で主役に抜擢されたバレリーナが、ものすごいプレッシャーを感じて、様々な幻覚も見る。幻覚のシーンは、ホラー映画のような怖さ。心身ともに追いつめて技量を磨いていくバレリーナのストイックさが、よく描かれているのだけれど、この感覚は、すべての芸事に通じると思う。本番前は自分を追い込んでいくのが、表現者というもの。音楽業界でもスタッフの条件の一つは、ナイーブになっているアーティストと同じ楽屋に居られるかどうかだ。何かあればフォローするのは、当然だけど、黙って近くに居ても、アーティストに気を遣わせない存在、関係性になるのは、マネージャーには、マストの資質だ。僕は冗談で「俺たち危険物取扱主任一級の免許を持ってるみたいだよね。」と言っている。


 そういえば、演出家の鈴木裕美が「翌日に本番や大事な稽古のある俳優は気をつけて」とツイートしていた意味が分かった。情緒豊かな女優や歌手が見たら、主役に感情移入して食あたりのように、「アタって」しまっても不思議は無い。決して悪い事ではないけれど、翌日の表現には支障があるかもね。


 子役出身の大女優は少ないと言うけれど、ナタリー•ポートマンは、着実にハリウッドを代表する女優の一人になるだろうね。記念碑的作品。特に、舞台と並行して進むラスト15分は、最高。
 音楽は、クリント・マンセル。「白鳥の湖」の音楽の変奏でつくられていて、非常にレベルが高い。作品に求心力を与えている。チャイコフスキーの曲が元ということで「作曲賞」には資格がなかったらしいけれど。
 蛇足だけど、もしこれが日本映画だったら、バレエシーンは吹き替えだろうなと、ふと思って、寂しくなった。ナタリーは8割以上のシーンを踊っているそうです。っていうか、全部かと思ったよ。全然気づかない。
 以上、絶賛です。もう一度観たい。


 『ゲンズブールと女たち』

 今回は、褒めてばかりだけど、これもスゴく良かった。
 セルジュ・ゲンズブールは、言わずとしてたフランスのソングライターでシンガー。プロデューサーとしても、多くのシンガーを世に送り出している。たくさん有名女優、歌手とも浮き名を流しているのだけれど、そのゲンズブールの人生を描いた作品。
 全編で、ゲンズブールの歌が使われていて、素敵な「音楽映画」でもある。僕は、シャンソンって、古くさい印象で興味なかったけど、これを観て、初めて良いと思った。言葉もとても大切な音楽だから、フランス語が少しでもわかると、もっと楽しめるのにと悔しい。歌っているシーンが物語と関わっているので、歌詞も全部字幕で出ているんだけど、この日本語訳がとてもいい。(古田由紀子さん)自然に入ってきた。おそらくスゴくレベルの高い翻訳作業なのではないかと推察した。
 ただ、シャンソンを本当に楽しむには、ある程度のフランス語の素養は必要だよね?そのくらい、言葉と旋律が結びついている。Jポップは、日本語の伝統的な発音をある程度壊して、つくってきた歴史があるよね?外国人が日本語歌詞で歌うのをディレクションすると気づくことだけど、母音の発音を相当変えても、Jポップとしては不自然じゃない。桑田佳祐以降かなと思うけれど、母音部分を「ア」でも「エ」でも「イ」みたいに発音しても、文脈から類推してくれる歌なんて、他の国ではあり得ないんじゃないかな?フランス語に殉じたシャンソンとの違いを知って、Jポップ、Jロックが海外でも受け入れられるのは、日本語の発音を曖昧でもよくしたこと(つまり、日本語ネイティブの語感を知らなくても歌のニュアンスが楽しめること)と、関係あるんじゃないかと思った。まだ、ジャスト思いついただけだけど。今後、意識して考えてみたい。


 レティシア・カスタが演じるブリジットバルドーも、ルーシー・ゴードン演じるジェーン・バーキンも、スゴく似てた。写真で見る本物より本人っぽい感じ。もちろん主役のエリック・エルモスニーノもめちゃリアル。
 美しい女性と美しい音楽にが溢れる映画らしい映画。醜男でユダヤ人なのが、ゲンズブールのコンプレクッスだったと言われているけれど、幸せな人生だよね。無頼派で無軌道な人生だけど、名曲もたくさん残したしね。これは、没後20年記念映画らしい。
 フランス映画だからだろうけど、それにしても煙草を吸い過ぎ。この映画の中で、ゲンズブールは何本、吸ったんだろう?脳梗塞で倒れた入院先でも吸ってたし。



 『美しき棘』

 フランス映画祭で上映された作品。新進女流監督の作品らしいけど、たぶん失敗作ないしは、意欲作?
 パリを舞台に、女子高校生の悩みみたいなものを描いているのだろうけれど、現代フランス事情を知りたい人や、欧州の若手映画監督を押さえておきたいというような人以外は、観なくていいですっていう感じ。
 というか、日本では公開されないんじゃないかな。



 以前は、誰かと約束しないと観たい映画を逃していたけど、最近は、隙間時間を使って、映画を観るのが上手になってきた。いろんな事を考えさせられ、異文化に触れ、感性を刺激されって言葉にすると、こっ恥ずかしいけど、映画を観るのは続けよう。
 今後は、できるだけ試写会か公開直後に観て、即、ブログでも紹介するようにします。情報としては遅すぎるよね、ごめんなさい。

2011年7月12日火曜日

反原発とヒロシマモナムールと静岡県 〜『ヒロシマモナムール』『小谷元彦展/幽体の知覚』


 先月、静岡県立劇場の芸術公演で行われた演劇『ヒロシマ・モナムール』を観てきた。静岡県は、「静岡パフォーイングアーツセンター(SPAC)という劇場とスタッフと俳優養成の仕組みを持っていて、友人の宮城聰さんが芸術監督を務めている。そんな縁もあって、劇場には何度か訪れた事はあるのだけれど、舞台芸術公園は始めて行った。新幹線の静岡駅の隣の東静岡駅から車で5分くらい坂を登ったところにある公園は、茶畑や森があって、素晴らしい景観だった。「楕円堂」というホールはその名の通り、楕円形をしていて、木造の古いお寺のような建物。天井も高くて、中に居るだけで、芸術的な雰囲気がする。


 『ヒロシマ・モナムール』は、フランスの女流作家マルグリット・デュラスが、1958年に書いた映画用の戯曲。もちろん、原爆後の広島を舞台にしていて、映画撮影のために広島を訪れたフランス人女優が、日本人の建築家と恋に落ちるという話。官能的な内容だ。フランスで舞台化されたのをSPACが招聘したようだ。

 原発事故は想定外だった筈だが、こんな時に公演された事も印象深い。外国人の耳には「ヒロシマ(仏語だとイロシマ)」と「フクシマ」は韻を踏んでいるような、似た響きになる。フランスの主催者は来日を渋ったが、出演者が強く望んでくれて実現したそうだ。ベッドシーンは全裸に近い状態で、照明も暗く、フランス語の台詞を字幕で追いながらの観劇は、集中力が必要だったけど、深みのある戯曲がよく消化されていて、深い感銘を受けた。ものすごく遠回りで、わかりやすい手法ではないけれど、アンチ原発を訴えているんだよね。
映画はDVD化もされている。終演後のアーティストトークで主演女優のヴァレリーが、二十四時間の情事』という邦題なっているのは残念と、言っていたのが印象的だった。公開当時は日本では、現代のままの公開は難しかったらしい。舞台はなかなか観られないだろうから、
興味を持った方はこちらをどうぞ。


 せっかくだったので、静岡県立美術館の小谷元彦展にも足を伸ばした。森美術館でやっていたのを見逃していたから。美術館のロケーションも素晴らしかった。常設がロダンの美術館も、館内にも余裕があって、ゆったりと観られる。
展覧会の内容も、すごぶる良かった。彼の作風を「身体感覚を揺さぶる」みたいな説明があったけれど、まさにそんな感じ。水が流れている映像に囲まれた箱みたいななっていて床は鏡。時間の滝を上下するような体験。ほかにも、髪の毛で編まれた衣服とか、僕らの常識を揺り動かしてくるのだけれど、どれも美しさがある。72年生まれだけど、どんな奇才だろう思ったら、作品風景を紹介している映像があって、結構、まともな人な感じだった。
もちろん脳みその中の狂気はわからないけどね。


 市場原理では成立しないだろう、劇場と美術館。きちんとした企画と運営で続けている静岡県は、本当に偉いな。芸術を自治体が支援するのは欧州型と言えるけど、中途半端に日和見しないで、ポリシーを貫いて欲しい。情報公開と明確な哲学があれば、納税者も支持すると思う。
 静岡県のSPACは国際的な視野で、様々な作品を上演しているので、興味のありそうな時は、是非行ってみてください。渋谷から無料バスを出したりもしているらしいよ。
宮城さん(仲の良い人たちは、「みやちゃん」と呼びます)は、クナウカという劇団を始める前にミヤギサトシショー」というソロ企画のプロデュースを4年くらいご一緒したけど、誇るべき友人の一人です。




2011年7月8日金曜日

最近観た映画『マイ・バック・ページ』 『somewhere』 『引き裂かれた女』 『悲しみのミルク』 『劇場版 神聖かまってちゃん』

映画の記録はまとめて書こうと思っていたら、随分、時間が経ってしまった。本数もたまっちゃった。
最近、ブログを読んでくれる人も増えているので、映画についても参考にしてもらえるように、できるだけ試写会か公開直ぐに観て、テンポよく書くようにしよう。


『マイ・バック・ページ』
久々に日本映画を観て、ガチンコで感動した。
全共闘の運動家(松山ケンイチ)と、新米新聞記者(妻夫木聡)が主人公だけど、学生運動には、思い入れは無い。全共闘世代には煙たい印象。若い頃は酒席とかで、下の世代として「世の中を悪くしたのはお前らなのに、なんでそんな偉そうに語るの?」て、漠然と思ってたくらい。
山下監督は、僕よりももっと若い。この映画は、ジェネレーションは関係なく、共感できる内容だと思う。過激派と呼ばれ始めた頃の運動家の底の浅さと、メディアや警察の対応など、昭和40年代前半の世相が上手に描けている。
でも、僕はこの映画は、もっと普遍的な魅力があると思う。青春という言葉だとあまりにも陳腐だけれど、誰もが持っている心の奥に疼いているほろ苦い何かを刺激してくる。泣きそうになった。正直に言うと、ちょっと泣いちゃった。
噂によると、興行的には成績がよくないらしい。おそらくはこの作品に思い入れがあるのだろう、人気と実力を兼ね備えた俳優陣が熱演している。山下監督は、前作『リンダリンダリンダ』も素晴らしかったし、最近の日本人若手監督ではピカイチだと思う。DVDでもいいから、みんなに観て欲しいな。好きな映画ほど、言葉で伝えるのは難しいんだけど、これは、マジで、絶賛です。オススメしたい。


 『somewhere』 
 以前、『Lost in translation』を観たときから思っていたんだけど、ソフィア・コッポラには、是非、ミュージッククリップを撮ってもらいたい。予算は、スゴくかかりそうだけどね^^;

 なんと言っても、コッポラの娘だから、子供の頃から超一流のクリエイターや、ハイセンスな物に囲まれていたんだろうね。映像の感覚が、「お洒落感」にあふれている。

映画の感想を男女で分けるのは不適切かもしれないけど、男的に言うと「本当に映画つくりたいの?」って疑問がある監督でもある。この映画も、全然、感動はしないし、感情移入もできないんだけど、「雰囲気が素敵」という意味では、100点。
家庭に不適合で女性にモテまくる俳優なんて、自己投影してもよいような主人公なのにね。「リアリティが無い。でも、別にリアリティなんて無くていいのかもね?」という感想です。ヒネクレタ感想でごめん。でも、多分、次作も観るよ。


『引き裂かれた女』
 すごく良かった。
フランス映画らしい「哲学的」な部分が、恋愛に上手に集約されている。
設定自体はありふれている。美しく奔放な娘が、強く求愛する大金持ちの息子よりも、親子ほど年の離れた男を愛してしまうという話。  「引き裂かれた女」のフランス語のニュアンスまではわからないけれど、このタイトルには、いろんな意味が込められているのだろうね。
主役のリュディヴィーニュサヌエが、無茶苦茶かわいい。だいぶ惚れました。


『悲しみのミルク』
何と、ペルーの映画。
「東京エスムジカ」というエスニックベースのJ-popグループを考案した位だから、欧米以外のカルチャーに興味があるんだけど、そんな僕も、さすがにペルー映画を観たのは、初めてだと思う。
観た後に、女性監督だと聞いて、ちょっと意外だった。感傷的な部分の繊細さは男性監督の感覚に思えたから。でも、よく考えたら、ペルーの迷信を信じて、「貞操を守るために、女性器に芋を入れてる娘」なんてエグイモチーフは、男じゃ無理で、女性監督じゃ無いと描けないかと、考え直した。
南米に行ったことは無いけれど、ペルーの貧しさと懸命さがよく描かれていると思う。
全体に、説明的な要素は少なくて、映画らしい映画。オススメです。


『劇場版 神聖かまってちゃん/ロックンロールは鳴り止まないっ』
 この数年間で、日本の音楽業界、音楽シーンで最も話題になったのは、「神聖かまってちゃん」というバンドだ。ライブでの奇行に近い逸話の数々。ニコニコ動画等を活用したプロモーション。インディーズロックバンドとして、古さと新しさが共存しているのが魅力なんだよね?
この映画も、おそらくは監督が「かまってちゃん」のファンなんだろうなって思えて、好感が持てる。
日本のインディーズバンドには、頭脳警察や有頂天やBUCK-TICKやスターリンや、その他沢山の先達が居て、このバンドも、褒め言葉として、その系譜上に位置づけられるのだと、僕は勝手に思っている。
観客に夢を見せることができるというのが、一番大事なんだと、改めて思ったし、そう感じさせてくれた。映画のカタルシスの在り方も、良い意味でオーソドックスな古さがあった。嫌いじゃ無いよ。


そんな充実の映画ライフだった。あと、DVDで観た二つの映画
『シャネル&ストラヴィンスキー』『最後の忠臣蔵』がスゴク良かった。これもオススメです。

2011年7月6日水曜日

日本の音楽配信事情2011 〜ジャーナリストや評論家に音楽ビジネスの間違った認識が多すぎる!〜

 デジタルの近未来予測や電子書籍の本で、音楽業界事情を引用される事は多い。これまでも何度か指摘したけど、高名な方で、全体の趣旨は正しくても、音楽ビジネスの引用は事実誤認が多い。おそらくちゃんとデータを調べずに、書いているのだろう。やめてほしい。
音楽業界側に説明する姿勢が無かったという反省はあるので、取り急ぎ、ブログでまとめてみた。
 
 読んでない本の事を採り上げて申し訳ないけど(すいません。急いで読んで、本そのものの感想は別途に書きます。)友人の引用&紹介によると、本田雅一著『これからのスマートフォンが起こすこと』(東洋経済社)には、


 「音楽のデジタル配信において日本はあまり良い事例を残すことができなかった。あれほど導入時に抵抗の強かったiチューンズ・ミュージックストアが、日本の音楽デジタル配信の中で圧倒的な存在になっている」


 と書いてあるそうだ。
 前後の文脈がわからないけれど、この文章そのものは、不正確だ。


 アイチューンミュージックストアの日本での売上げシェアは2%程度。音楽配信での割合でも7%程度だ。CDが諸外国に比べて売上の減少が少ないのと、モバイル配信が中心なのが日本のマーケットの特徴だ。日本は、先進国で唯一、アイチューンストアが失敗しているというのが、2011年現在の状況だ。
 また、「着うた」という名称で、モバイルで配信が広がった。こちらは「レコード会社直営サイト(通称レコ直)」を中心に成功している。(スマフォが中心になる市場には対応できていないので、成功していた、というべきかもしれない。)もともとは、着信音向けで始まったが、「着うたフル」という楽曲全部をダウンロードさせるサービスも、それなりに定着した。レコ直は、この10年間で唯一と言ってよい、大手レコード会社の「成功事例」なのだ。


 佐々木俊尚さんの『電子書籍の衝撃』にも同様の間違いがあり、それについては、以前書いたので、繰り返さないが、同じく佐々木さんの『キュレーションの時代』に関して。ネット上に趣味嗜好別に人が集まる事を「ビオトープ」(生息空間)という言葉で説明している。これが、ソーシャル時代特有と捉えている観点が違うと思う。
 音楽では、インターネットができる以前から、「ビオトープ」のような機能はあった、それはジャズ喫茶だったり、同人的な情報誌だったり、ある時期は深夜ラジオだったり、CD店だったこともある。
 「Hi-STANDARD」というパンクバンドがインディーズでCDを30万枚以上売った時には驚いた。まったく無名の沖縄のバンド「MONGOL800」は、タワーレコードがプッシュしたことで200万枚売れた。宇多田ヒカルのデビュー曲『automatic』は、地方FM局のパワープレイで火がついた。自然発生的に、趣味嗜好の同じユーザー同士のクチコミからヒットが生まれた例は、音楽業界にはたくさんあるのだ。
 僕はむしろ、これだけソーシャルメディアが発達してきているのに、それを活用した成功例が「ほとんど無い」ことに音楽業界の問題点を感じている。佐々木さんの『キュレーションの時代』とは、広義の環境認識は同じだけど、音楽ビジネスへの見解は真逆だ。
(その成功例をつくるのは自分の仕事だと思って、頑張っている。以前「Sweet Vacation」というユニットで、デジタル活用PRは全面的に試している。興味のある方は、拙著『ソーシャルネットワーク革命がみるみるわかる本』(ダイヤモンド社)をご覧ください。)


 評論家やジャーナリストの皆さん!デジタルなり、ソーシャルなりで音楽ビジネスを引用する際は、
 ●日本ではアイチューンミュージックストアが失敗している
 ●ソーシャルメディア活用のビジネス的な成功例が、まだほとんど無い。
 ●音楽配信で成功したのは、大まかに言うと「レコ直」だけ。
という3点を押さえて、諸外国と比較しながら、論証してください。米国とごっちゃにしたり、何となくの気分で書くにはやめて欲しいです!!


 余談だけど、昨日出席した「デジタルコンテンツ白書2011」の編集会議で「神聖かまってちゃん」の動きが面白いという話になった。好きなバンドだけど、僕から見ると、活動のやり方そのものは、ツールが違うだけで70年代の「頭脳警察」や80年代の「有頂天」などのアングラ的な動きと共通するものを感じる。そして、何よりまだビジネス的に大成功している訳じゃない。
 本質を見ていかないと、正しい未来予測はできないんじゃない?


追記:読まずに書いて申し訳無かったので、改めて書評+αを書きました。『気がつけばコンテンツと呼ばれて~』を読んでみてください!


山口